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アル酎ハイマーはいかい士

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~ 六義園と柳沢吉保 ~
東京都文京区駒込にある『六義園(りくぎえん)』に来ています。





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『六義園』は、徳川五代将軍 徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が、

自らの下屋敷として造営した大名庭園です。

元禄8年(1695年)に加賀藩の下屋敷跡地を綱吉から拝領した「吉保」は7年の歳月を

かけて、2万7千坪の敷地に池を掘り、山を築き『六義園』造り上げた。




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和歌に造詣が深かった「吉保」は ”古今和歌集”の序文に描かれた、和歌の六つの

基調を表す言葉「六義(むくさ)」にちなんで『六義園』と名付けた。


明治に入り、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別荘として整備され、

岩崎家に大切に保存、使用されてきた。

その後、、昭和13年に東京市に寄贈され、都立庭園・特別名勝として今日に至る。




〖滝・滝見の茶屋〗




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〖太平の世の出世頭〗


「吉保」は徳川綱吉が館林藩主の時代の藩士で、

たかが家禄530石の「小姓組番衆」にすぎなかった。

綱吉が5代将軍となり江戸城に入ると、吉保も幕臣となり「小納戸役」を命ぜられる。

その後、綱吉の寵愛を受け、とんとん拍子に、出世、禄高の加増を繰り返し

7万2000石の武蔵国川越藩主、その後事実上22万石の甲斐国甲府藩主にまでなった。

役職も側用人から、大老格にまで上り詰めた。

歴史上、旗本から唯一大名に出世した”大岡越前”ですら

4千石から1万石への加増されただけですので、その異常さが解かります。


その為、江戸庶民や周囲の者からはやっかみの目で見られるようになった。




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でも「吉保」の野望はそれだけにとどまらなかった。

「吉保」は、側室飯塚染子との間に嫡男・吉里を設けている。

俗説の域を出ませんが、染子はかって綱吉の愛妾であり、

「綱吉」から「吉保」に下された”拝領妻”であるとされている。

そしてその子「吉里」は綱吉の隠し子であるとも言われている。




「吉保」は甲府に100万石の領地を綱吉から賜らんと企て「吉保」の側室になってからも

「綱吉」の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。

「綱吉」はそれを快諾したといわれているが、

快諾はしたものの、それを実行する前に病死してしまい、実現されることはなかった。


この話の真意はともかく、それ以降江戸幕府は、将軍が大奥に泊まる際には

同衾する女性とは別に、大奥の別の女性を2名寝所に留まらせ寝ずの番をさせ

その夜に起きたことをことごとく報告させる仕組みを取り入れた。

これは、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。

「吉保」が大奥に残した唯一の遺産です。


又、「将軍綱吉」は記録にあるだけでもは58回もこの「吉保邸」を訪れています。

江戸庶民でなくても、何か勘ぐりたくなりますよね。



そんなこともあって、江戸庶民からは「柳沢吉保」イコール出世の為なら

何でもする男、黒幕、悪人などのレッテルが貼られた。










〖蓬莱島・臥龍石〗


蓬莱島   明治になって岩崎家が設置したアーチ状の岩です。

臥龍石(がりょうせき)  龍が伏せたようになっている岩ですが、

               今は亀の甲羅干し島になってます。




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〖中の島〗




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〖たまも磯〗




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もう一つ、江戸庶民にとっては「吉保」に関して忘れられないことが有ります。

世に云うところの”赤穂事件”です。



元禄14年3月14日、殿中松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭を

評定を開くこともなく、即日切腹の沙汰を出すよう

「将軍綱吉」に吉保が提言したとされている。

又、浅野が江戸城を出される際も、不浄門と言われる「平川門」から出され、

陸奥一関藩主 田村建顕の屋敷に預かりとなった。

大名の切腹は室内で行われるのが通例の中、庭先にむしろを敷いて行われた。

いずれも、全て「吉保」からの強い要求があったとされている。




翌年の12月14日、大石内蔵助以下47人が吉良邸へ討ち入りし、見事主君の仇を

討った折、日本中がやんやの喝采を挙げて賞賛している中、

またもや吉保が儒学者・荻生徂徠の

提言を汲み上げ全員切腹と言う沙汰を下した。

それにとどまらず、再度の仇討を恐れてか

47人全ての親子兄弟を全員島流しにしてしまう暴挙に至った。


これにより「徂徠」共々「吉保」は日本中から”悪役”の汚名を着ることとなり

”嫌われ者”の代名詞ともなった。


                                   ≪仮名手本忠臣蔵より≫










〖橋〗



『六義園』には、なかなか趣のある”橋”が架けられています。

しかも「さり気なく」「慎ましやか」に




《渡月橋》




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《千鳥橋》




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《藤波橋》




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《山陰橋》




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〖染井門〗



通常は閉鎖されているのですが、桜の季節は空いております。




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中々趣のあるいい庭園でした。

庶民的でした。

近くにある、水戸光圀が造った”小石川後楽園”は中国の影響もあってか

「見せる庭園」「褒められる庭園」の感じがしますが

こちらは「観る庭園」「自分が楽しむ庭園」のような雰囲気があります。

”柳沢吉保”出世の方法の真意はともかく、庭園造りは間違いなく一級品です。




将来までもずっと残したい庭園のひとつです。


異常『六義園と柳沢吉保』でした。
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歴史探訪 | 21:14:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
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