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アル酎ハイマーはいかい士

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~ 本所松坂町 ~
高輪泉岳寺へ行って、こちらに顔を出さないのは片手落ちでしょう。

やはり”喧嘩は両成敗”

てなわけで 『本所松坂町公園 吉良邸跡』 です。

地元の両国3丁目の有志の方達が、討ち入りの名所を惜しんで

費用を出し合って”みしるし洗いの井戸”を中心にした

「吉良邸跡」の一部を買い取り、区に寄付をしてこの公園が出来たそうです。




         DSC_8748.jpg





DSC_8746.jpg




         DSC_8752.jpg










敷地の広さは2,550坪、建屋は母屋と長屋を合わせて807坪あったそうです。

膨大な土地と屋敷です。

しかも、浅野匠頭守の殿中刀傷事件の後に拝領されたそうです。

片方は切腹、片方は広い敷地に豪邸では怒りも増幅しますネ。

しかし、討ち入り事件の後没収されたので、

吉良上野介は、僅か1年半程しかこの豪邸に住んでなかったことになります。





c0187004_100723.jpg





それにしても、これだけ部屋があったら探し出すのもさぞかし大変だったでしょう。

しかも、図面に乗っていない外の「炭小屋」に隠れていたとされているので

「よくぞ見つけたり」ですネ。



又、当時の地図を見ると「堀部安兵衛」を初め多くの赤穂浪士が

「吉良邸」を取り囲むように道路を隔てて住んでいたことが解かります。




よく、映画やテレビドラマで「本所松坂町の吉良邸に討ち入り」とありますが

この地名は、討ち入りの翌年に起きた「元禄大地震」と「大火」によって

町が壊滅し、その後復興した後につけられた地名ですので『討ち入り』の時には

「本所松坂町」と言う地名はありません。




         HonjoMatsuzakacho.jpg





又、討ち入りは元禄15年12月14日とありますが、

正確には12月15日の午前4時頃です。

ではなぜ12月15日としないのかと言うと、

当時はもちろん時計などありません、1日の始まりは「夜明け」から始まります。

ですから12月15日の朝4時は夜が空けていませんのでまだ昨日です。

したがって12月15日の昨日は12月14日の深夜となります。







雪の降る中、そろいの羽織を着て「山鹿流陣太鼓」の鳴る中

討ち入りをする姿は、日本人の誰もが思い浮かべる光景ですが

実際は、怪しまれない様にバラバラの衣装で、できるだけバラバラに

吉良邸を目指したようです。

確かに、蕎麦屋に47人が集まったら怪しまれるし、

ましてや、吉良邸の向かいにある「堀部安兵衛宅」に集合するなど

出来るはずもないですネ。

ただし、大石内蔵助ら数人の武士は、夜中町を歩いていて誰かに見とがめられたら

「火の用心の夜回りをしている」と言う為に「火消装束」を着ていたようです。




            220px-Kuniyoshi_1797-1861,_Utagawa,_Japan,_Tominomori










無事本懐を遂げた赤穂浪士は、四家に別れて預かりとなります。

この浪士の処分を巡って幕府内部はかんかんがくがくの議論が続きました。

大方は「武士道の鏡」「あっぱれ」の意見でしたが、

落語の『徂徠豆腐』でおなじみの幕府お抱え儒学者”荻生徂徠”の一言

『死してこそ英雄であり武士道の鏡である』

で「全員切腹」が決定し、その翌日の2月4日即座に切腹が実行されました。




            220px-Ogyuh_Sorai.jpg






処分はそれだけにとどまらず、浪士の遺児は全員島流し

大石内蔵助が望んでやまなかった、浅野匠頭守の実弟(養子として息子となる)

浅野長広(別名:大学)によるお家再興も、またもや認められなかった。



しかしながら、その6年後将軍綱吉が死去し、家宣が6代将軍になると

恩赦が行われ、浪士の遺児の遠島は解かれ、

浅野大学の処分も解除されました。

そして浅野大学は安房の国・朝夷(現、千葉県南房総市千倉)に

500石の所領を賜り、旗本として念願のお家再興を果たした。










『吉良邸跡』に話を戻します。



公園内にある本人が造らせたと言う木像を基にして造られたものです。




         DSC_8749.jpg










討ち入りで、赤穂浪士は一人も亡くならなかったが

吉良側は、清水一学や小林平八郎以下20人全員が命を落とした。




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彼らも歴史を作った人達には変わりありません、

謹んで ご冥福を祈ります。










この”赤穂事件”は、歌舞伎狂言作者4代目鶴屋南北による

”仮名手本忠臣蔵” によってあっと言う間に当時の日本国民の

心をつかみ、日本の歴史上最大のドラマとして今に語り継がれてきた。

素晴らしいですネ。





ところで「仮名手本」てなんでしょう?











それは 「仮名の字」を覚えるのには

「いろは」47文字を覚えなければならないからです。


江戸っ子って「粋」ですネ。





以上 『本所 松坂町』 でした。
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旅・はいかい | 07:30:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
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