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アル酎ハイマーはいかい士

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~ 曹洞宗 萬松山 泉岳寺 ~
この時期になると、日本人なら必ず脳裏に浮かんで来るのが

”赤穂浪士の討ち入り” 俗に言う『忠臣蔵』ですネ。

いつかは訪れてその足跡を辿って視たいと思っていた

『萬松山 泉岳寺』に念願かなって来ています。

「都営浅草線 泉岳寺駅」から2分程で、門前に到着です。

その少し手前の歩道に石碑がありました。

古くて何が書いてあるか不明ですが

『四十七』の文字だけは、読み取れました。



         DSC_8340.jpg










〖中門〗


切り妻造 本瓦葺き 一間一戸四脚門

左右に袖塀を持ち、右手は通用門となっている

禅宗寺院の中でも、格式の高い様式です。




DSC_8342.jpg












中門の扁額です。




DSC_8343.jpg













中門を入ると、土産物屋が並んでます。

やはり「義士」に関連するものが多いようです。

”ボケ封じ”はちょっと気になりますネ。




DSC_8345.jpg











〖大石内蔵助吉雄銅像〗


所有が転々として結果、泉岳寺に寄進され、

大正10年12月14日に除幕した。




         DSC_8347.jpg










内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして

東の空(江戸)をじっと睨んでいる。

さすが、浪曲師の発願による鋳造だけあって、

見せ場がドラマ仕立てだ。


なぜ、東の空を見ていると解かったのだろうか?




         DSC_8348.jpg








〖山門〗


入母屋造 本瓦葺 三間一戸八脚門


楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、

階下の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍が嵌め込まれています。

後世に残さなければいけない「楼門建築」です。




DSC_8346.jpg







扁額です。




500_12785483.jpg







見返りの〖山門〗です。




         DSC_8351.jpg










〖本堂〗




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         DSC_8355.jpg








扁額の「獅子吼(ししく)」は、お釈迦様の説法の事だそうです。




DSC_8350.jpg











〖梵鐘・鐘楼堂〗


今でも朝晩突かれているそうです。

江戸時代から明治まで使われていた梵鐘は、

現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。




         DSC_8353.jpg











本堂に向かって左手前がいよいよ ”四十七士の墓所”の入り口です。

ちょっと緊張感がよぎります。




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入り口の手前に”義士への鎮魂”の為にと

”水琴窟(すいきんくつ)”が造られていました。

”水琴窟”とは、日本庭園で手水鉢(ちょうずばち)や蹲踞(つくばい)の

流水を利用して、地中に伏瓶(ふせがめ)をした空洞に、

いたたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で

江戸時代の庭師・小堀遠州が考案したと言われている。




DSC_8377.jpg











〖瑤池梅〗



義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った梅




         DSC_8357.jpg










〖血染めの石〗



浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際に、

その血がかかったとされる石




DSC_8358.jpg










〖首洗い井戸〗



義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、

主君の墓前に供え報告をしたところから「首洗い井戸」と呼ばれている。




         DSC_8360.jpg











≪浅野長矩公之墓≫



時期が時期だけに、日中はどの墓碑にも線香の煙が途絶えることがありません。



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≪浅野長矩夫人之墓≫




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〖赤穂義士の墓〗




”なぜ、四十七士の墓が四十八あるのか?”







〖義士の墓の配列〗




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赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、

直ちにこの地に埋没されました。

しかし、この四十七士の他に本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い

討ち入りを断念し、切腹した萱野三平の供養墓が64年後の明和4年(1767年)に

建立されました。

したがって、義士の墓碑が48あることになります。



また討ち入り後、泉岳寺に向かう途中突然姿を消した、吉田忠左衛門の足軽

寺坂吉衛門については「逃亡説」「大石からの密命説」「討ち入り不参加説」等

色々ありますが、瑶泉院にいの一番に報告に行ったこと、

後日江戸へ自首してきて赦されたこと、本来の武士ではなかったこと

などを鑑みて明治元年(1867年)供養碑が建立された。

ただし、切腹をした四十七士の戒名の上には”刃(は)”の

文字が刻まれていますが、切腹をしなかった寺坂吉衛門にはついていません。

なお、本人は麻布・曹渓寺で83歳まで天寿を全うした。




切腹後、親族が遺体を引き取って行った間新六を含め

「萱野三平」「寺坂吉衛門」の3名は遺骨の埋設がなされていないので

厳密に言うと墓碑ではなく「供養塔」と言うことになります。











「大石内蔵助」




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「大石主税」




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「堀部安兵衛」



大石主税の隣にありました。

墓石に刻まれた名前もはっきり確認できます。

文字の彫り口が鋭いですネ。

まるで彫刻刀で柔らかい木材に掘り込んだ様です。




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「萱野三平」


「忠臣蔵」のドラマでは、必ず取り上げられますよネ。

雪の中、討ち入りに行こうとする三平を家族が引き留めるシーンが思い出されます。




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「寺坂吉衛門」



右端の末席です。

厳密には、ただ一人浅野家の直接の家来ではありません。

吉衛門にスポットを当てたドラマも幾つか創られています。




         DSC_8363.jpg












いずれにしても、日本の歴史の一頁を作った方達ですので敬意を表し

ご冥福を祈りたいと思います。

また、折を見て参詣させていただき、歴史の一幕を覗いてみたいと思います。




          ”合掌”    ” 南無~”








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旅・はいかい | 22:17:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
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