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~ 将門の首塚 ~
それは皇居のお濠にほど近い、大手町のビル群に囲まれながら、篤く祀られていた。




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〖将門伝説〗



奈良時代、全国津々浦々の治安の悪化に乗じて一族の内乱を皮切りに武器力と豊富な

馬を利用した騎馬隊を駆使して、あっという間に関東八か国を自分の手に治めてしまった

時代の寵児がいました。

それが”平将門の乱”の張本人「平将門」 です。

将門は、関東八か国だけに収まらず、ますます勢力を伸ばしていた。

しかしながら彼は自らを”新皇”と名乗り面と向かって朝廷と

対立を露わにした。

朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵(将門)退治の祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して

将門の乱の鎮圧に向かわせた。その結果、この討伐軍が到着する前に将門は、地元の

武士である藤原秀郷等に討たれてしまいました。





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戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、

首級(しゅきゅう)は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。しかし、無念やるかたない

首級は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、

夜な夜な叫んだと云われています。

そして3日目に首級は、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、故郷の東国に向かって

飛んでいき、数ヶ所に落ちたとされています。その首級の落ちた最も著名な伝承地が、

ここ千代田区大手町にある「将門の首塚」です。

将門の魂は、無念の気持を抱えたままこの地に葬られたのでした。





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〖将門首塚伝説〗


「将門の乱」は一件落着となりましたが、将門のすさまじい怨念は後世まで続きます。

そしてこの大手町の首塚にもその怨念が形となって現れるのです。

最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時です。

首塚を壊してこの地に仮庁舎を建設して営業していた僅か2年の間に、大蔵大臣を始め

関係者が14名も亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出した。

これは「将門の祟り」ではないかとのことから仮庁舎は程なく取り壊されて他の地に移設されました。

次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから

米軍は伝説を考慮し、急遽工事を中止してしまいました。

更に昭和の高度成長時代、首塚の土地の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の

首塚に面した席の行員が次々に病気になると言う怪奇な事態が発生しました。

「長銀」はお祓いをして厄払いを祈願し事を納めたと言います。

これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないように

フロアがレイアウトされていたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの

配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、

その怨念が続いていることを物語っています。




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〖カエルの置物伝説〗



「将門首塚」の周りには大小の”カエルの置物”が置かれています。


なんの呪いなのか

将門の怨念に関わるのか




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「将門の首塚」のあるここ大手町には日本の経済を左右するようなリーディングカンパニーが

軒を連ねています。その企業の中には、海外や関連企業に左遷された「企業戦士」も数多く

います。その方々が、首を切られた将門の首が京都から飛んで帰ってきた伝説に我が身を

重ね、いつか「無事に帰ってくる」ことを願って蛙の置物を供えて左遷の地へ旅立つのです。

サラリーマンんの「哀愁」「夢」とが「将門伝説の中」に溶け込んでいます。


何せ、サラリーマンにとって、 ”首切り””島流し(左遷)” は明日は我が身ですから

首を切られた者同士だからこそ解り得る怨念の世界があるのかも知れません。




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以上、千年たっても消えないどころか現在の怨念も重ねて渦まく『将門の首塚』 でした。









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歴史探訪 | 17:23:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 瑞宝殿 ~
”杜の都 仙台”に来ています。

7年ぶりでしょうか。

以前は仕事に追われ、ゆっくり”杜の都”を鑑賞できなかったので

今回は少しゆっくり見てみたいと思います。

まずは、仙台の歴史的スーパーヒーロー伊達政宗を祀る霊廟 『国宝 瑞宝殿』 にお邪魔しました。

場所は、仙台市都心部の南西、広瀬川の蛇行部に挟まれた経ケ峯に鎮座しています。





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苦手な坂と長い階段を登ると入り口が見えてきました。




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【手水舎】




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【涅槃門】



『瑞宝殿』の入り口”涅槃門”です。


涅槃とは仏教用語で、智慧(ちえ)を磨き修行を積んで、迷いや煩悩(ぼんのう)や

執着を断ち切り、悟りに到達して、いっさいの苦・束縛(そくばく)・輪廻(りんね)から

解放された最高の境地をいう。

すなわち安楽な死後の世界にも通じる。

”涅槃門”とはその地へ向かう門と言うことでしょうか。





銅板葺きの黒漆塗りで、扉や垂木に施された金の装飾がよく映えた豪華な門です。

柱間上部や桁の透かし彫りは精緻を極め、蟇股(かえるまた)には青く彩色された麒麟です。

麒麟は良い君主が現れると出現すると言われる伝説上の動物であり、

建立した2代忠宗が政宗を名君だったと示したかったことが察せられます。

破風には最強の守護獣と言える牡丹を背にした唐獅子、麒麟の後ろには瑞雲という

めでたいことの起こる前兆を示す雲の装飾も見られます。




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【瑞宝殿】




『瑞宝殿』の入り口です。




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この入り口を潜り、短い渡り廊下を渡るとその奥に見えているのが『瑞宝殿』です。




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『瑞宝殿』



ど派手な桃山建築の霊屋「瑞鳳殿」です。



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隅棟に龍を這わせた銅板本瓦葺きで、黒漆塗りの宝形造りです。扉は涅槃門同様に

金の装飾が華やかで、大きな「竹に雀」が一つずつ、「九曜紋」が二つずつあしらわれています。

扉の左右には、平和が到来したときだけ現れるという鳳凰を上に乗せた華頭窓。

長押の上には、それぞれの楽器で音楽を奏でて政宗の死を慰める天女が瑞雲の中を舞い、

蟇股にはめでたいことの起こる前兆とされる瑞鳥。木鼻では唐獅子が守護し、

植物の文様や蝶をモチーフにした図柄も見られます。




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仏経的なモチーフから、龍などの道教的なもの、蝶や牡丹の中国的な取り合わせまで

何でも混在させた装飾様式を桃山様式と呼びますが、瑞鳳殿はこれの最たるものと

言えるでしょう。

派手好きな政宗らしい霊屋に悲愴感は全く感じられません。












「殉死者供養塔」



瑞鳳殿の両脇には、政宗に来世も仕えようと殉死した家臣15名と家臣に仕えた

陪臣5名の石塔も並びます。




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しかし、武断政治から文治政治へ移行しようとする流れの中、主君を追って死ぬよりも

生きてその知恵を生かしてほしいと、徳川家康を筆頭に福岡の黒田如水、会津の保科正之らは

生前に殉死を禁じることが主流でした。

ところが、そんな戦のない江戸期を迎えても戦国武士としての価値観や武士道観を

強く持っていた政宗の片鱗を窺うことが出来る証の一つでしょうか。











【感仙殿】



仙台藩2代藩主・忠宗の霊屋です。

華頭窓の上や長押には装飾が無く、黒漆塗りの壁が表出して、瑞鳳殿よりもシックな印象を受けます。

政宗を継いだ忠宗は、法治主義と堅実な藩運営で産業振興をはかり

仙台藩の基礎固めをしました。

彼もまた、仙台藩の功労者だったようです。





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【善応殿】



3代藩主・綱宗の霊屋です。

造りは「感仙殿」と同様です。




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政宗の眠る瑞鳳殿。生前、政宗が「死後はこの辺に葬られたいものだ」と杖を立てた丘は、

2代・3代藩主らも眠る場所となりました。残念ながら太平洋戦争の空襲によって霊屋は

消失してしまいましたが、伊達家の寄付や市民の再建の機運の高まりによって美しく復元され、

現在も大切に守られています。

歴史が守れていると言うことは素晴らしいことだと思います。











以上、仙台の歴史が眠る『瑞宝殿』 でした。

歴史探訪 | 22:44:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 世界遺産 旧富岡製糸場 ~
嬬恋からの帰り道、念願だった『世界遺産 富岡製糸場 』にお邪魔しました。 

世界遺産に認定された直後は、かなりの見学者で混雑していると聞いているので

見学に来るのを見送っていたまま今日に至ってしまった。


広々とした工場敷地内には、沢山の施設が立ち並び、現在修復中の施設や

まだ手付かずの施設も少なくなかった。




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富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、

器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。

そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、

働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。

第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も

片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の

木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が

国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が

重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに

「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。

2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の

世界遺産リスト登録物件となった。





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〖繰糸所〗       国 宝



富岡製糸場の中で中心的な建物である。敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、

木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140.4 m、梁間12.3 mである。

繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓に

よって採光がなされている。この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。

富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械を

そのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に全国26の製糸工場に

導入された。





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〖東置繭所〗      国 宝



繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が

「コ」の字をなすように配置されている。東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4 m、

梁間12.3 m、木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。

東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。





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〖首長館〗      重要文化財


別名ブリューナー館と言われた。繰糸所の東南に位置する、木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、

桟瓦葺き。平面はL字形を呈し、東西33 m、南北32.5 mである。別名が示すように

ブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。

この建物は面積916.8 m2と広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、

フランス人教婦たちも女工館ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。

その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、

戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来工女教育のために竣工当初の姿が

改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を

伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解も多い。






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〖検査人館〗      重要文化財


木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西10.9 m、南北18.8 mです。

もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として

建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベランとポール・エドガール・プラーは、

無許可で横浜に出かけ、怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた。

また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期(詳細日程未詳)に来日し、

1872年に雇い入れられた銅工のジュール・シャトロンも、1873年に富岡を離れていた。

このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていた。






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まだ幾つかの施設があるが、内部が整備されているのは「操糸所」と「東置繭所」だけで

あった。もう少し整備が進んでいる状態を期待していったので、少し物足りなさを感じた。

今度は、もう少し整備が進んだ状態出来た時再来したいと思います。






以上、まだまだ修復途上の 『世界遺産 旧富岡製糸場』 でした。

歴史探訪 | 04:26:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 大阪城 ~
大阪へは、仕事やプライベートで何度も訪れて来ていますが

『大阪城』へは一度も来ていないことに気が付きました。

そんなわけで、本日『大阪城』初デビューです。




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【青屋門(あおやもん)】


大阪城二の丸の北に位置する出入り口

桝形門

2階に櫓を持つ櫓門

創建 元和6年(1620年)

空襲で大破したが、残材を用いて昭和44年(1969年)再建した。




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【極楽橋】


山里丸と二の丸を結ぶ橋

当初、天正11年(1583年)豊臣秀吉によって架けられた。

大坂夏の陣、明治維新の大火などで焼け落ちたが

昭和40年(1965年)に再架橋された。




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【天守閣】


この天守閣は3代目の天守閣です。

初代は、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に築いた天守閣(豊臣大坂城)

2代目は、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、

徳川家康が寛永6年(1629年)に築いた天守閣(徳川大坂城)

そして、3代目は現在の天守閣で昭和6年(1931年)に昭和復興天守閣として

コンクリートで再建された。(登録有形文化財)

徳川家康は”徳川大坂城”を構築するに当たり、”豊臣大坂城”の石垣、堀等に

盛り土を施し、すべてを地中に埋めてその上に”徳川大坂城”を構築した。

したがって今地上に見えている大坂城の遺構は全て”徳川大坂城”の遺構です。




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場内の木々にも少しずつ秋の色ずきが見え始めました。

本格的な紅葉にはもう少しでしょうか。




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最上階には途中までEVで行くことができます。

豊臣も徳川も、大坂の街を見渡せるこの丘に惚れて城を造ったのでしょうか。




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【桜門】




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【西の丸庭園から】




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【大坂城の石垣】


大阪城を見るに当たり、楽しみにしていたことが一つあります。

それが「大坂城」の石垣を探索することです。




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比叡山の麓に、安土桃山時代に活躍した石工の集団”穴太衆(あのうしゅう)”

住む町「穴太の里」があります。

”穴太衆”が石垣を手掛けたなかで、現存する主な城には、金沢城・安土城・彦根城・竹田城・篠山城

などそうそうたる名城の名が並らびます。

その「穴太の里」で ”穴太積”を今に継承する方々と以前知り合うことができ、

色々な話を伺う機会に恵まれました。

史実を証明する文章等はありませんが、口伝で言い伝えられたこととして、

豊臣大坂城構築の際、石垣を積むことを秀吉より命じられた”穴太衆”

集落の石工のほとんどの者を引き連れて大坂へ行き、その命に携わりました。

そしてそれが竣工した後、城内の秘密を知る者として口封じの為全員が処刑されて、

一人も「穴太の里」に戻ってくることはなかったそうです。

”穴太積”伝承の危機にさらされた”穴太衆”は残った者で何とか試行錯誤の上

「一子相伝」の技術を復活させたそうです。

そんないきさつもあって、どこかに”穴太積”の痕跡を見つけることができないか

探索を試みたしだいです。

前記したように、家康は”豊臣大坂城の石垣”を全部地中に埋没させたので

まず、地上には無いだろうとは思っていましたが、本当にありませんでした。

”穴太積”は石をほとんど加工しない「野面積(のずらつみ)」なのですが、

残存の大坂城の石垣は、ほとんどが「切り込みはぎ」「打ち込みはぎ」で

加工された石で造られていました。

その中で、やや「野面積」に近い積み方の石垣の遺構がわずかに残っていました。

石が玉石なので”穴太積”と言えるかどうかはわかりませんが。




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大津市坂本にある本物の”穴太積”はこちらです。




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【大坂城豊臣石垣公開プロジェクト】


現在、大阪市では埋没された”豊臣大坂城の石垣”を掘り起こして

一般公開しようと言うプロジェクトが進行中です。

平成31年の竣工を目指しているそうです。

すごいですね。完成したら是非見に行きたいですね。

”穴太衆”が命の替わりに築いた石垣が日の目を見る時が来るんですね。

楽しみです。わくわくするプロジェクトですネ。




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                    ≪大阪市広報より≫

 









以上 『大阪城』 でした。

歴史探訪 | 22:52:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 十思(じっし)公園 ~
昼休み、ちょっと時間があるので昔懐かしい場所に散歩の足を延ばしてみた。

日本橋小伝馬町の『十思公園』 です。

昔、この近くに職場がありましたので、

朝食や昼食の場としてよく利用させていただきました。

”十思”とはあまり聞きなれない名前ですが、お隣の「十思小学校」の名から

付けられたのですが、唐の時代天子のわきまえなければならない戒めを記した

十か条のことで、この十か条を校風、教育理念として掲げた小学校だそうです。

その「十思小学校」も今はすでに廃校となっていました。寂しいです。

暮も押し迫ったころ、先生たちに頼まれて生徒の為の餅つき大会を手伝ったのが

つい最近の事の様に思い出されます。


又、曲面に造られた校舎の外観が特徴的で強く印象的に記憶にあります。

造られた当時としては、とてもお洒落でハイカラな校舎だったのでしょうネ。




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ここ『十思公園』 は一見、見た目は都内のどこにでもあるような公園ですが




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慶長年間から明治8年まで270年に渡って数十万人の囚人を収容した

”伝馬町牢屋敷跡”なんです。

ですから本来は”史跡”と言うべき公園です。

勿論、この『十思公園』だけでなく旧十思小学校、道路向かいの「大安楽寺」を含めた

2618坪の広大な敷地一帯が”伝馬町牢屋敷跡”です。

「大安楽寺」のあるところが”処刑場”にあたります。


当時の牢屋敷を俯瞰して観ると、こんな感じでしょうか




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さらに今の場所にラップさせると



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〖処刑場跡〗




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処刑された人達の霊を祀って建立されました。




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江戸時代は、懲役や禁固の処罰が無かったので「伝馬町牢屋敷」は今で言う

「刑務所」ではなく、死刑や島流しなどの刑が確定するまでの未決囚を収監する

留置所兼死刑執行場のような施設でした。




牢内は囚人による完全自治制がしかれており、牢屋役人ですら権限が及ばない

世界でした。 幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれていた。

牢内の人数が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と呼ばれる

殺人が行われました。


    ① 牢内の規律を乱すもの

    ② 元岡っ引きや目明し  

    ③ いびきのうるさい者

    ④ 牢外からの金品による差し入れの無い者

が標的にされ、暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、お咎め無し。

いずれにしても人間としての扱いとは程遠かったようです。





『十思公園』 の中に当時日本橋石町(現在の日本橋三越近辺)にあった時を告げる鐘

”時の鐘”が移築保存されています。

この鐘の音を合図に処刑が執行されたようです。




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   ” 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

                      留め置かまし大和魂 ”
   




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大老・井伊直弼による”安政の大獄” でここ「伝馬町牢屋敷」に収容されて

処刑された”吉田松陰”の辞世の句碑が公園内に置かれています。   







吉田松陰は、この「伝馬町牢屋敷」2度収容されています。

一度目は安政元年(1854年)にペリーが再来した折、米国船に乗って密航しようとして

失敗し、伝馬町送りとなった。

この時、収容されている牢仲間に学問を教えたと言う逸話もありますが、

半年程で出獄を許され、地元長州で蟄居(ちっきょ)の身となった。 

この時"松下村塾”を開いて、高杉晋作や久坂玄瑞と言った志士を育てた。



二度目は、井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤激し

あからさまに幕府批判を展開したことを咎められ「安政の大獄」の網にかかり

橋本佐内、高野長英らと共に収容され、その後井伊直弼の逆鱗に触れ処刑となった。  





”松下村塾”の弟子たちが吉田松陰の死を悼み奉納した石碑も隣にありました。




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以上、江戸の歴史が残されている 

大切にしなければいけない史跡 『十思公園』 でした。

歴史探訪 | 21:23:48 | トラックバック(0) | コメント(1)
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