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アル酎ハイマーはいかい士

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~ 十思(じっし)公園 ~
昼休み、ちょっと時間があるので昔懐かしい場所に散歩の足を延ばしてみた。

日本橋小伝馬町の『十思公園』 です。

昔、この近くに職場がありましたので、

朝食や昼食の場としてよく利用させていただきました。

”十思”とはあまり聞きなれない名前ですが、お隣の「十思小学校」の名から

付けられたのですが、唐の時代天子のわきまえなければならない戒めを記した

十か条のことで、この十か条を校風、教育理念として掲げた小学校だそうです。

その「十思小学校」も今はすでに廃校となっていました。寂しいです。

暮も押し迫ったころ、先生たちに頼まれて生徒の為の餅つき大会を手伝ったのが

つい最近の事の様に思い出されます。


又、曲面に造られた校舎の外観が特徴的で強く印象的に記憶にあります。

造られた当時としては、とてもお洒落でハイカラな校舎だったのでしょうネ。




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ここ『十思公園』 は一見、見た目は都内のどこにでもあるような公園ですが




DSC_十0004





慶長年間から明治8年まで270年に渡って数十万人の囚人を収容した

”伝馬町牢屋敷跡”なんです。

ですから本来は”史跡”と言うべき公園です。

勿論、この『十思公園』だけでなく旧十思小学校、道路向かいの「大安楽寺」を含めた

2618坪の広大な敷地一帯が”伝馬町牢屋敷跡”です。

「大安楽寺」のあるところが”処刑場”にあたります。


当時の牢屋敷を俯瞰して観ると、こんな感じでしょうか




        rouyamitorizu1.jpg








さらに今の場所にラップさせると



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〖処刑場跡〗




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         DSC_十6235










処刑された人達の霊を祀って建立されました。




      dr09.jpg






    




江戸時代は、懲役や禁固の処罰が無かったので「伝馬町牢屋敷」は今で言う

「刑務所」ではなく、死刑や島流しなどの刑が確定するまでの未決囚を収監する

留置所兼死刑執行場のような施設でした。




牢内は囚人による完全自治制がしかれており、牢屋役人ですら権限が及ばない

世界でした。 幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれていた。

牢内の人数が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と呼ばれる

殺人が行われました。


    ① 牢内の規律を乱すもの

    ② 元岡っ引きや目明し  

    ③ いびきのうるさい者

    ④ 牢外からの金品による差し入れの無い者

が標的にされ、暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、お咎め無し。

いずれにしても人間としての扱いとは程遠かったようです。





『十思公園』 の中に当時日本橋石町(現在の日本橋三越近辺)にあった時を告げる鐘

”時の鐘”が移築保存されています。

この鐘の音を合図に処刑が執行されたようです。




         DSC_十0005












   ” 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

                      留め置かまし大和魂 ”
   




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大老・井伊直弼による”安政の大獄” でここ「伝馬町牢屋敷」に収容されて

処刑された”吉田松陰”の辞世の句碑が公園内に置かれています。   







吉田松陰は、この「伝馬町牢屋敷」2度収容されています。

一度目は安政元年(1854年)にペリーが再来した折、米国船に乗って密航しようとして

失敗し、伝馬町送りとなった。

この時、収容されている牢仲間に学問を教えたと言う逸話もありますが、

半年程で出獄を許され、地元長州で蟄居(ちっきょ)の身となった。 

この時"松下村塾”を開いて、高杉晋作や久坂玄瑞と言った志士を育てた。



二度目は、井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤激し

あからさまに幕府批判を展開したことを咎められ「安政の大獄」の網にかかり

橋本佐内、高野長英らと共に収容され、その後井伊直弼の逆鱗に触れ処刑となった。  





”松下村塾”の弟子たちが吉田松陰の死を悼み奉納した石碑も隣にありました。




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以上、江戸の歴史が残されている 

大切にしなければいけない史跡 『十思公園』 でした。

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歴史探訪 | 21:23:48 | トラックバック(0) | コメント(1)
~ 六義園と柳沢吉保 ~
東京都文京区駒込にある『六義園(りくぎえん)』に来ています。





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『六義園』は、徳川五代将軍 徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が、

自らの下屋敷として造営した大名庭園です。

元禄8年(1695年)に加賀藩の下屋敷跡地を綱吉から拝領した「吉保」は7年の歳月を

かけて、2万7千坪の敷地に池を掘り、山を築き『六義園』造り上げた。




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和歌に造詣が深かった「吉保」は ”古今和歌集”の序文に描かれた、和歌の六つの

基調を表す言葉「六義(むくさ)」にちなんで『六義園』と名付けた。


明治に入り、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別荘として整備され、

岩崎家に大切に保存、使用されてきた。

その後、、昭和13年に東京市に寄贈され、都立庭園・特別名勝として今日に至る。




〖滝・滝見の茶屋〗




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〖太平の世の出世頭〗


「吉保」は徳川綱吉が館林藩主の時代の藩士で、

たかが家禄530石の「小姓組番衆」にすぎなかった。

綱吉が5代将軍となり江戸城に入ると、吉保も幕臣となり「小納戸役」を命ぜられる。

その後、綱吉の寵愛を受け、とんとん拍子に、出世、禄高の加増を繰り返し

7万2000石の武蔵国川越藩主、その後事実上22万石の甲斐国甲府藩主にまでなった。

役職も側用人から、大老格にまで上り詰めた。

歴史上、旗本から唯一大名に出世した”大岡越前”ですら

4千石から1万石への加増されただけですので、その異常さが解かります。


その為、江戸庶民や周囲の者からはやっかみの目で見られるようになった。




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でも「吉保」の野望はそれだけにとどまらなかった。

「吉保」は、側室飯塚染子との間に嫡男・吉里を設けている。

俗説の域を出ませんが、染子はかって綱吉の愛妾であり、

「綱吉」から「吉保」に下された”拝領妻”であるとされている。

そしてその子「吉里」は綱吉の隠し子であるとも言われている。




「吉保」は甲府に100万石の領地を綱吉から賜らんと企て「吉保」の側室になってからも

「綱吉」の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。

「綱吉」はそれを快諾したといわれているが、

快諾はしたものの、それを実行する前に病死してしまい、実現されることはなかった。


この話の真意はともかく、それ以降江戸幕府は、将軍が大奥に泊まる際には

同衾する女性とは別に、大奥の別の女性を2名寝所に留まらせ寝ずの番をさせ

その夜に起きたことをことごとく報告させる仕組みを取り入れた。

これは、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。

「吉保」が大奥に残した唯一の遺産です。


又、「将軍綱吉」は記録にあるだけでもは58回もこの「吉保邸」を訪れています。

江戸庶民でなくても、何か勘ぐりたくなりますよね。



そんなこともあって、江戸庶民からは「柳沢吉保」イコール出世の為なら

何でもする男、黒幕、悪人などのレッテルが貼られた。










〖蓬莱島・臥龍石〗


蓬莱島   明治になって岩崎家が設置したアーチ状の岩です。

臥龍石(がりょうせき)  龍が伏せたようになっている岩ですが、

               今は亀の甲羅干し島になってます。




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〖中の島〗




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〖たまも磯〗




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もう一つ、江戸庶民にとっては「吉保」に関して忘れられないことが有ります。

世に云うところの”赤穂事件”です。



元禄14年3月14日、殿中松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭を

評定を開くこともなく、即日切腹の沙汰を出すよう

「将軍綱吉」に吉保が提言したとされている。

又、浅野が江戸城を出される際も、不浄門と言われる「平川門」から出され、

陸奥一関藩主 田村建顕の屋敷に預かりとなった。

大名の切腹は室内で行われるのが通例の中、庭先にむしろを敷いて行われた。

いずれも、全て「吉保」からの強い要求があったとされている。




翌年の12月14日、大石内蔵助以下47人が吉良邸へ討ち入りし、見事主君の仇を

討った折、日本中がやんやの喝采を挙げて賞賛している中、

またもや吉保が儒学者・荻生徂徠の

提言を汲み上げ全員切腹と言う沙汰を下した。

それにとどまらず、再度の仇討を恐れてか

47人全ての親子兄弟を全員島流しにしてしまう暴挙に至った。


これにより「徂徠」共々「吉保」は日本中から”悪役”の汚名を着ることとなり

”嫌われ者”の代名詞ともなった。


                                   ≪仮名手本忠臣蔵より≫










〖橋〗



『六義園』には、なかなか趣のある”橋”が架けられています。

しかも「さり気なく」「慎ましやか」に




《渡月橋》




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《千鳥橋》




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《藤波橋》




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《山陰橋》




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〖染井門〗



通常は閉鎖されているのですが、桜の季節は空いております。




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中々趣のあるいい庭園でした。

庶民的でした。

近くにある、水戸光圀が造った”小石川後楽園”は中国の影響もあってか

「見せる庭園」「褒められる庭園」の感じがしますが

こちらは「観る庭園」「自分が楽しむ庭園」のような雰囲気があります。

”柳沢吉保”出世の方法の真意はともかく、庭園造りは間違いなく一級品です。




将来までもずっと残したい庭園のひとつです。


異常『六義園と柳沢吉保』でした。

歴史探訪 | 21:14:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 史跡 湯島聖堂 ~
江戸幕府の藩校”昌平坂学問所”であった『湯島聖堂』です。

いつもお世話になっているお隣の病院の待ち時間が長い時の散歩コースです。

五代将軍綱吉がここに「孔子廟」を移し、「大成殿」とし、官学の府としたのが始まりです。

こののち十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設した。








〖大成殿(たいせいでん)〗


間口   20.0 メートル  奥行   14.2 メートル  高さ    14.6 メートル

大成とは「孔子廟」の正殿を意味する。

殿内には、正面に「孔子」の像が祀られているそうです。




湯島聖堂 008




湯島聖堂 009




〖鬼口頭(きぎんとう)〗

「大成殿」の屋根の上に置かれている”守護獣”で、鯱の一種です。

龍頭から鯨のように水を噴き上げている。火災から建物を守る願いが籠められている。

形態は、鯱型で「龍頭魚尾、二脚双角」頭より潮を噴き上げ、

ここで注目なのは、普通の鯱とは逆に頭を外に向けている事だ。

やはり外から来る火災を防ぐためでしょうか。




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〖聖獣・鬼龍子(きりゅうし)〗


「大成殿」の屋根の棟四隅に鎮座する狛犬に似た「霊獣」

顔は猫科のようです。牙をむいて睨んでいます。




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〖杏壇門(きょうだんもん)〗

間口  20メートル  奥行 4.7メートル 入母屋造り

「大成殿」の入り口になります。




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〖入徳門(にゅうとくもん)〗


木造平屋建  切妻造り  延べ面積 14.16㎡

宝永元年(1704) 建造

関東大震災で焼失を免れた、聖堂内唯一の木造建造物




湯島聖堂 015




湯島聖堂 016








〖仰高門(ぎょうこうもん)〗


鉄筋コンクリート造 平屋建て 切り妻造り 延べ面積 10.73㎡

昭和10年竣工

見学者の入り口です。




湯島聖堂 026














〖手水舎〗




湯島聖堂 011








〖孔子銅像〗


昭和50年台湾から送られた。

孔子の銅像としては世界最大




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以上、すぐ近くにある”湯島天神”と並び学業の神様として「受験生の味方」

『湯島聖堂』 散歩でした。

歴史探訪 | 07:07:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 東京駅100周年 ~
東京駅の100周年を記念して、「ライトアップ」が行われた。

以前行われて、すぐに中止になった「プロジェクションマッピング」ではありません。

単純な「ライトアップ」です。

とは言え綺麗です。




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5日間限定ですが

丸の内の”マチテラス”の催しの一環でもあるようです。

普段から『東京駅』を利用する人たちと、見学者とが相まって

駅前は「押すな押すな」の人だかりです。

「押すな押すな」と言いながら押すなヨ!!

スタッフの方達のスピーカーが響き渡ります。




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周りのビルとのコラボもいいですね。

ビルも良い「脇役」しています。




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正面玄関入り口です。




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「ステエーションホテル」です。

このホテルの”ロイヤルスイート”は一泊いくらすると思いますか。




なんと《80万円》するそうです。  吃驚(びっくり)!!!!




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『東京駅』は1914年”辰野金吾”によって造られました。

”辰野金吾”は佐賀県唐津の出身で現東京大学工学部建築科の一期生で

日本の煉瓦造り建築の祖と言われている。




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「日本銀行本店」を筆頭に現存する有名な煉瓦造りの建物はほとんど彼の設計です。

後年は「東京大学の学長」も勤め、「工手学校(現工学院大学)」の設立者でもあります。















『東京駅』には「八角形のドーム」があります。

その八角形のアーチの最上部に最後に嵌め込んで、構造的に強度を持たせるための

「キーストーン」と言う石がありますが、その「キーストーン」に

”辰野金吾”は豊臣秀吉の兜「馬籣後立兜(ばりんうしろだてかぶと)」をモチーフしたものを使っている。

なぜ秀吉なのかと言うと”辰野金吾”は、唐津の「足軽」より身分の低い「下級武士」の出身で

秀吉にあこがれていたからとされている。



又その八角形に「干支」がモチーフされている。

ただし、八角形なので「十二支」は入らない。八枚だけである。

「十二支」は、元々それぞれ方角を示すものでもありますが、

真東、真南、真西、真北を示す「卯(う)」「午(うま)」「酉(とり)」「子(ね)」がない。

後年『東京駅』のどこかにあるだろうと、さんざん色々な学者さん達が探したが見つからなかった。




ところが、近年それが見つかった。

2012年、同じく”辰野金吾”が1914年に造った、佐賀県の「武雄温泉新館楼門」の

改修工事の際天井裏から出てきた。東西南北に埋め込まれていたのです。

『東京駅』に使うために造られた「干支のモチーフ」が密に遠く離れた武雄温泉の楼門に埋め込まれていた。

しかも、人目を避けるように。 しかも温泉場かよ1



そしてそれが約100年の時を経て明らかになる

"ミステリー"を通り越して"ファンタジー"ですよネ。



”辰野金吾”が100年後の人達に送った"遊びごころのプレゼント"だったのだろうか。

だとしたら、今頃舌を出して九州人らしく"アカチョコべー(あかんべー)」してるかも






            






"竜野金吾"によって作られた『東京駅』が戦争とか震災とかの紆余曲折を経ながら、

いろんな人の力を得て現在に生きている。

もちろん強度を補強されたり、"免震装置"を施されたりしてはいるが、作者の意図を極力尊重されている。

本当に素晴らしい。 日本の大切な宝物です。

さて、200周年目には何が施されるのだろうか、考えるだけでも今から楽しみです。

出来ればぜひ参加したいですネ。








以上『東京駅』100年目の歴史と色のファンタジーでした。

歴史探訪 | 06:17:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 安宅の関(あたかのせき) ~
いやー!!

久々の「歴史探訪」”れきたん”です。

歌舞伎十八番の一つ”勧進帳(かんじんちょう)”の舞台になった,北陸の地『安宅の関』に来ています。



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           〖九代目松本幸四郎の弁慶  七代目市川染五郎の富樫 〗





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兄、源 頼朝の怒りをかった源 義経は武蔵坊弁慶ら、わずかな家来と共に、

京都から奥州 平泉の藤原氏のもとへと逃走をする。

その途中、一行は「山伏」の姿に変装し、この「安宅の関」を通り抜けようとする。




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ところが、関守の”富樫左衛門”のところには、義経一行が「山伏」に姿を変えていると言う情報がすでに入っていた。

「通行罷りならん」と言う富樫に対し

弁慶は、焼失した東大寺大仏殿再建の為の「勧進」の旅をしていると答える。

富樫はさらに、ならば「勧進のお願い書」や「勧進したときの功徳」が書かれた”勧進帳”を読み上げよと命じる。

弁慶はたまたま持っていた白紙の巻物を取り出し、いかにも”勧進帳”であるかのように装い、

朗々と読み上げた。(勧進帳読み上げ)

尚も疑う富樫は「山伏の心得」や「秘密の呪文」について問いただすが、

弁慶はよどみなく答える(山伏問答)




              安宅の関 004







さすがの富樫も通行を許すが、富樫の部下の一人が、

先ほどより何もしゃべらない、何もしない”義経”に疑いをかけた。

弁慶はそれが主君の”義経”であることがばれない為に、持っていた金剛杖で”義経”を激しく叩く。

富樫は弁慶の痛切な「主君を思う気持ち」をくみ取り、関所を通ることを許す。




               安宅の関 005









危機を脱した弁慶は、いかに主君の命を救う為とはいえ、無礼を働いたことを涙ながらにわびる。

そこへ、先ほどの失礼を詫びに富樫が酒を持って現れる。弁慶は舞を披露し(延年の舞)踊りながら

”義経”らを先に逃がす。その後富樫に目礼し、急ぎ”義経”の後を追う。(飛び六方)

と言ういかにも、日本人好みの心が休まる「ジャパニーズD・N・Aストーリー」です。

日本人の10人中10人が義経・弁慶の味方です。

義経の正式名は”源 九郎判官義経”です。

日本人、み~んな”判官びいき”ですよネ。





        安宅の関 003









『安宅の関』は源 頼朝が奥州へ向かう頼朝を捕らえる為だけに、

日本中の街道に造った臨時の「簡易関所」の内の一つとされている。

したがって、”義経”が囚われるか、所在がはっきりした時点で全て閉鎖となった。

実際に『安宅の関』が存在したかどうかは、明確になっておりませんが

”源 義経”を語る時になくてはならない「話」であり「場所」であることには違いない。

無かった事を証明するのは「歴史」と言う夢を無理やり「消しゴム」で消すようなもの。

いい大人が”野暮”なこと止めましょうや。




        安宅の関 002





又、富樫左衛門も当初は弁慶に騙された凡庸な人物として描かれていましたが後には、弁慶の嘘を見破りながら

騙されたふりをする好漢な人物として演じられるようになった。

”義経”と”富樫”を祀る「祠」もあります。




               安宅の関 010




        安宅の関 008












「歌舞伎」においても、”勧進帳”の三役は歴代の看板役者が生涯に一度は演じる歌舞伎の代表作となった。

”勧進帳”は二部構成で出来ていて、前半は疑いを晴らそうとする弁慶と

それをあやしむ富樫との掛け合い台詞劇(勧進帳読み上げ)(山伏問答)

後半は、巧緻(こうじ)さと豪快さを演じる舞踊劇(延年の舞)(飛び六方)

となっており見どころが多く、客を飽きさせないことから最も人気の高い演目となり、

何度も繰り返し演じられ、必ず客が入ることから

「困った時の”勧進帳”」「またかの関」と揶揄されている。




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           〖七代目松本幸四郎の弁慶〗





               200PX-~1


        〖二代目市川猿之助の(飛び六方)〗








もう一つこの歌舞伎で感心するのは、その演目名となっている”勧進帳”です。

物語に出てくる「勧進帳」は単なる小道具です。

しかも「勧進帳」に見せたただの巻物です。 

偽物の勧進帳です。

それなのに演目名は「源 九郎判官義経」ではなく「武蔵坊弁慶」でもなく

まして「安宅の関」でもなく、なぜか”勧進帳”

「わけ」が解かる方がいたら教えて下さい。



江戸時代の「北斎」「歌麿」「写楽」達が浮世絵に描きだした”デフォルメ”の発想と同じなんでしょうか。

普段なんとは無しに見ている「部分」や「自然現象」「一瞬の瞬間」をクローズアップし、

そこにスポットライトを当てて誇張・強調・変形させる。

「粋」な江戸っ子の”洒落”なんでしょうか。

「勧進帳」確かに、物語の隠し味は出してるけど、主賓、主役じゃないよネ。

無くても物語は成り立つもの。

でも何故か耳に残る「音」だよネ”勧進帳”

やはり歌舞伎の台本を作る人の「江戸っ子センス」なんでしょうか。







『安宅の関』は日本海に面しています。

江戸時代には日本各地に富みをもたらした「北前船」の寄港地として繁栄しました。

この水平線の彼方を「北前船」が行き交ったのでしょうネ。


「誰か、此の辺で本物の『安宅の関』見かけた人、いませんかー!!」


「いたら連絡下さ~い!!」



        安宅の関 016









以上”勧進帳”の町、小松の『安宅の関』の探訪でした。

別に深くはなかったか。






歴史探訪 | 05:58:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
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