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~ 大阪城 ~
大阪へは、仕事やプライベートで何度も訪れて来ていますが

『大阪城』へは一度も来ていないことに気が付きました。

そんなわけで、本日『大阪城』初デビューです。




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【青屋門(あおやもん)】


大阪城二の丸の北に位置する出入り口

桝形門

2階に櫓を持つ櫓門

創建 元和6年(1620年)

空襲で大破したが、残材を用いて昭和44年(1969年)再建した。




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【極楽橋】


山里丸と二の丸を結ぶ橋

当初、天正11年(1583年)豊臣秀吉によって架けられた。

大坂夏の陣、明治維新の大火などで焼け落ちたが

昭和40年(1965年)に再架橋された。




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【天守閣】


この天守閣は3代目の天守閣です。

初代は、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に築いた天守閣(豊臣大坂城)

2代目は、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、

徳川家康が寛永6年(1629年)に築いた天守閣(徳川大坂城)

そして、3代目は現在の天守閣で昭和6年(1931年)に昭和復興天守閣として

コンクリートで再建された。(登録有形文化財)

徳川家康は”徳川大坂城”を構築するに当たり、”豊臣大坂城”の石垣、堀等に

盛り土を施し、すべてを地中に埋めてその上に”徳川大坂城”を構築した。

したがって今地上に見えている大坂城の遺構は全て”徳川大坂城”の遺構です。




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場内の木々にも少しずつ秋の色ずきが見え始めました。

本格的な紅葉にはもう少しでしょうか。




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最上階には途中までEVで行くことができます。

豊臣も徳川も、大坂の街を見渡せるこの丘に惚れて城を造ったのでしょうか。




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【桜門】




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【西の丸庭園から】




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【大坂城の石垣】


大阪城を見るに当たり、楽しみにしていたことが一つあります。

それが「大坂城」の石垣を探索することです。




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比叡山の麓に、安土桃山時代に活躍した石工の集団”穴太衆(あのうしゅう)”

住む町「穴太の里」があります。

”穴太衆”が石垣を手掛けたなかで、現存する主な城には、金沢城・安土城・彦根城・竹田城・篠山城

などそうそうたる名城の名が並らびます。

その「穴太の里」で ”穴太積”を今に継承する方々と以前知り合うことができ、

色々な話を伺う機会に恵まれました。

史実を証明する文章等はありませんが、口伝で言い伝えられたこととして、

豊臣大坂城構築の際、石垣を積むことを秀吉より命じられた”穴太衆”

集落の石工のほとんどの者を引き連れて大坂へ行き、その命に携わりました。

そしてそれが竣工した後、城内の秘密を知る者として口封じの為全員が処刑されて、

一人も「穴太の里」に戻ってくることはなかったそうです。

”穴太積”伝承の危機にさらされた”穴太衆”は残った者で何とか試行錯誤の上

「一子相伝」の技術を復活させたそうです。

そんないきさつもあって、どこかに”穴太積”の痕跡を見つけることができないか

探索を試みたしだいです。

前記したように、家康は”豊臣大坂城の石垣”を全部地中に埋没させたので

まず、地上には無いだろうとは思っていましたが、本当にありませんでした。

”穴太積”は石をほとんど加工しない「野面積(のずらつみ)」なのですが、

残存の大坂城の石垣は、ほとんどが「切り込みはぎ」「打ち込みはぎ」で

加工された石で造られていました。

その中で、やや「野面積」に近い積み方の石垣の遺構がわずかに残っていました。

石が玉石なので”穴太積”と言えるかどうかはわかりませんが。




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大津市坂本にある本物の”穴太積”はこちらです。




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【大坂城豊臣石垣公開プロジェクト】


現在、大阪市では埋没された”豊臣大坂城の石垣”を掘り起こして

一般公開しようと言うプロジェクトが進行中です。

平成31年の竣工を目指しているそうです。

すごいですね。完成したら是非見に行きたいですね。

”穴太衆”が命の替わりに築いた石垣が日の目を見る時が来るんですね。

楽しみです。わくわくするプロジェクトですネ。




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                    ≪大阪市広報より≫

 









以上 『大阪城』 でした。

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歴史探訪 | 22:52:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 十思(じっし)公園 ~
昼休み、ちょっと時間があるので昔懐かしい場所に散歩の足を延ばしてみた。

日本橋小伝馬町の『十思公園』 です。

昔、この近くに職場がありましたので、

朝食や昼食の場としてよく利用させていただきました。

”十思”とはあまり聞きなれない名前ですが、お隣の「十思小学校」の名から

付けられたのですが、唐の時代天子のわきまえなければならない戒めを記した

十か条のことで、この十か条を校風、教育理念として掲げた小学校だそうです。

その「十思小学校」も今はすでに廃校となっていました。寂しいです。

暮も押し迫ったころ、先生たちに頼まれて生徒の為の餅つき大会を手伝ったのが

つい最近の事の様に思い出されます。


又、曲面に造られた校舎の外観が特徴的で強く印象的に記憶にあります。

造られた当時としては、とてもお洒落でハイカラな校舎だったのでしょうネ。




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ここ『十思公園』 は一見、見た目は都内のどこにでもあるような公園ですが




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慶長年間から明治8年まで270年に渡って数十万人の囚人を収容した

”伝馬町牢屋敷跡”なんです。

ですから本来は”史跡”と言うべき公園です。

勿論、この『十思公園』だけでなく旧十思小学校、道路向かいの「大安楽寺」を含めた

2618坪の広大な敷地一帯が”伝馬町牢屋敷跡”です。

「大安楽寺」のあるところが”処刑場”にあたります。


当時の牢屋敷を俯瞰して観ると、こんな感じでしょうか




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さらに今の場所にラップさせると



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〖処刑場跡〗




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処刑された人達の霊を祀って建立されました。




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江戸時代は、懲役や禁固の処罰が無かったので「伝馬町牢屋敷」は今で言う

「刑務所」ではなく、死刑や島流しなどの刑が確定するまでの未決囚を収監する

留置所兼死刑執行場のような施設でした。




牢内は囚人による完全自治制がしかれており、牢屋役人ですら権限が及ばない

世界でした。 幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれていた。

牢内の人数が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と呼ばれる

殺人が行われました。


    ① 牢内の規律を乱すもの

    ② 元岡っ引きや目明し  

    ③ いびきのうるさい者

    ④ 牢外からの金品による差し入れの無い者

が標的にされ、暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、お咎め無し。

いずれにしても人間としての扱いとは程遠かったようです。





『十思公園』 の中に当時日本橋石町(現在の日本橋三越近辺)にあった時を告げる鐘

”時の鐘”が移築保存されています。

この鐘の音を合図に処刑が執行されたようです。




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   ” 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 

                      留め置かまし大和魂 ”
   




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大老・井伊直弼による”安政の大獄” でここ「伝馬町牢屋敷」に収容されて

処刑された”吉田松陰”の辞世の句碑が公園内に置かれています。   







吉田松陰は、この「伝馬町牢屋敷」2度収容されています。

一度目は安政元年(1854年)にペリーが再来した折、米国船に乗って密航しようとして

失敗し、伝馬町送りとなった。

この時、収容されている牢仲間に学問を教えたと言う逸話もありますが、

半年程で出獄を許され、地元長州で蟄居(ちっきょ)の身となった。 

この時"松下村塾”を開いて、高杉晋作や久坂玄瑞と言った志士を育てた。



二度目は、井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤激し

あからさまに幕府批判を展開したことを咎められ「安政の大獄」の網にかかり

橋本佐内、高野長英らと共に収容され、その後井伊直弼の逆鱗に触れ処刑となった。  





”松下村塾”の弟子たちが吉田松陰の死を悼み奉納した石碑も隣にありました。




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以上、江戸の歴史が残されている 

大切にしなければいけない史跡 『十思公園』 でした。

歴史探訪 | 21:23:48 | トラックバック(0) | コメント(1)
~ 六義園と柳沢吉保 ~
東京都文京区駒込にある『六義園(りくぎえん)』に来ています。





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『六義園』は、徳川五代将軍 徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が、

自らの下屋敷として造営した大名庭園です。

元禄8年(1695年)に加賀藩の下屋敷跡地を綱吉から拝領した「吉保」は7年の歳月を

かけて、2万7千坪の敷地に池を掘り、山を築き『六義園』造り上げた。




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和歌に造詣が深かった「吉保」は ”古今和歌集”の序文に描かれた、和歌の六つの

基調を表す言葉「六義(むくさ)」にちなんで『六義園』と名付けた。


明治に入り、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別荘として整備され、

岩崎家に大切に保存、使用されてきた。

その後、、昭和13年に東京市に寄贈され、都立庭園・特別名勝として今日に至る。




〖滝・滝見の茶屋〗




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〖太平の世の出世頭〗


「吉保」は徳川綱吉が館林藩主の時代の藩士で、

たかが家禄530石の「小姓組番衆」にすぎなかった。

綱吉が5代将軍となり江戸城に入ると、吉保も幕臣となり「小納戸役」を命ぜられる。

その後、綱吉の寵愛を受け、とんとん拍子に、出世、禄高の加増を繰り返し

7万2000石の武蔵国川越藩主、その後事実上22万石の甲斐国甲府藩主にまでなった。

役職も側用人から、大老格にまで上り詰めた。

歴史上、旗本から唯一大名に出世した”大岡越前”ですら

4千石から1万石への加増されただけですので、その異常さが解かります。


その為、江戸庶民や周囲の者からはやっかみの目で見られるようになった。




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でも「吉保」の野望はそれだけにとどまらなかった。

「吉保」は、側室飯塚染子との間に嫡男・吉里を設けている。

俗説の域を出ませんが、染子はかって綱吉の愛妾であり、

「綱吉」から「吉保」に下された”拝領妻”であるとされている。

そしてその子「吉里」は綱吉の隠し子であるとも言われている。




「吉保」は甲府に100万石の領地を綱吉から賜らんと企て「吉保」の側室になってからも

「綱吉」の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。

「綱吉」はそれを快諾したといわれているが、

快諾はしたものの、それを実行する前に病死してしまい、実現されることはなかった。


この話の真意はともかく、それ以降江戸幕府は、将軍が大奥に泊まる際には

同衾する女性とは別に、大奥の別の女性を2名寝所に留まらせ寝ずの番をさせ

その夜に起きたことをことごとく報告させる仕組みを取り入れた。

これは、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。

「吉保」が大奥に残した唯一の遺産です。


又、「将軍綱吉」は記録にあるだけでもは58回もこの「吉保邸」を訪れています。

江戸庶民でなくても、何か勘ぐりたくなりますよね。



そんなこともあって、江戸庶民からは「柳沢吉保」イコール出世の為なら

何でもする男、黒幕、悪人などのレッテルが貼られた。










〖蓬莱島・臥龍石〗


蓬莱島   明治になって岩崎家が設置したアーチ状の岩です。

臥龍石(がりょうせき)  龍が伏せたようになっている岩ですが、

               今は亀の甲羅干し島になってます。




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〖中の島〗




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〖たまも磯〗




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もう一つ、江戸庶民にとっては「吉保」に関して忘れられないことが有ります。

世に云うところの”赤穂事件”です。



元禄14年3月14日、殿中松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭を

評定を開くこともなく、即日切腹の沙汰を出すよう

「将軍綱吉」に吉保が提言したとされている。

又、浅野が江戸城を出される際も、不浄門と言われる「平川門」から出され、

陸奥一関藩主 田村建顕の屋敷に預かりとなった。

大名の切腹は室内で行われるのが通例の中、庭先にむしろを敷いて行われた。

いずれも、全て「吉保」からの強い要求があったとされている。




翌年の12月14日、大石内蔵助以下47人が吉良邸へ討ち入りし、見事主君の仇を

討った折、日本中がやんやの喝采を挙げて賞賛している中、

またもや吉保が儒学者・荻生徂徠の

提言を汲み上げ全員切腹と言う沙汰を下した。

それにとどまらず、再度の仇討を恐れてか

47人全ての親子兄弟を全員島流しにしてしまう暴挙に至った。


これにより「徂徠」共々「吉保」は日本中から”悪役”の汚名を着ることとなり

”嫌われ者”の代名詞ともなった。


                                   ≪仮名手本忠臣蔵より≫










〖橋〗



『六義園』には、なかなか趣のある”橋”が架けられています。

しかも「さり気なく」「慎ましやか」に




《渡月橋》




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《千鳥橋》




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《藤波橋》




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《山陰橋》




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〖染井門〗



通常は閉鎖されているのですが、桜の季節は空いております。




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中々趣のあるいい庭園でした。

庶民的でした。

近くにある、水戸光圀が造った”小石川後楽園”は中国の影響もあってか

「見せる庭園」「褒められる庭園」の感じがしますが

こちらは「観る庭園」「自分が楽しむ庭園」のような雰囲気があります。

”柳沢吉保”出世の方法の真意はともかく、庭園造りは間違いなく一級品です。




将来までもずっと残したい庭園のひとつです。


異常『六義園と柳沢吉保』でした。

歴史探訪 | 21:14:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 史跡 湯島聖堂 ~
江戸幕府の藩校”昌平坂学問所”であった『湯島聖堂』です。

いつもお世話になっているお隣の病院の待ち時間が長い時の散歩コースです。

五代将軍綱吉がここに「孔子廟」を移し、「大成殿」とし、官学の府としたのが始まりです。

こののち十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設した。








〖大成殿(たいせいでん)〗


間口   20.0 メートル  奥行   14.2 メートル  高さ    14.6 メートル

大成とは「孔子廟」の正殿を意味する。

殿内には、正面に「孔子」の像が祀られているそうです。




湯島聖堂 008




湯島聖堂 009




〖鬼口頭(きぎんとう)〗

「大成殿」の屋根の上に置かれている”守護獣”で、鯱の一種です。

龍頭から鯨のように水を噴き上げている。火災から建物を守る願いが籠められている。

形態は、鯱型で「龍頭魚尾、二脚双角」頭より潮を噴き上げ、

ここで注目なのは、普通の鯱とは逆に頭を外に向けている事だ。

やはり外から来る火災を防ぐためでしょうか。




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〖聖獣・鬼龍子(きりゅうし)〗


「大成殿」の屋根の棟四隅に鎮座する狛犬に似た「霊獣」

顔は猫科のようです。牙をむいて睨んでいます。




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〖杏壇門(きょうだんもん)〗

間口  20メートル  奥行 4.7メートル 入母屋造り

「大成殿」の入り口になります。




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〖入徳門(にゅうとくもん)〗


木造平屋建  切妻造り  延べ面積 14.16㎡

宝永元年(1704) 建造

関東大震災で焼失を免れた、聖堂内唯一の木造建造物




湯島聖堂 015




湯島聖堂 016








〖仰高門(ぎょうこうもん)〗


鉄筋コンクリート造 平屋建て 切り妻造り 延べ面積 10.73㎡

昭和10年竣工

見学者の入り口です。




湯島聖堂 026














〖手水舎〗




湯島聖堂 011








〖孔子銅像〗


昭和50年台湾から送られた。

孔子の銅像としては世界最大




         湯島聖堂 024










以上、すぐ近くにある”湯島天神”と並び学業の神様として「受験生の味方」

『湯島聖堂』 散歩でした。

歴史探訪 | 07:07:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
~ 東京駅100周年 ~
東京駅の100周年を記念して、「ライトアップ」が行われた。

以前行われて、すぐに中止になった「プロジェクションマッピング」ではありません。

単純な「ライトアップ」です。

とは言え綺麗です。




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東京駅100年 002-crop






5日間限定ですが

丸の内の”マチテラス”の催しの一環でもあるようです。

普段から『東京駅』を利用する人たちと、見学者とが相まって

駅前は「押すな押すな」の人だかりです。

「押すな押すな」と言いながら押すなヨ!!

スタッフの方達のスピーカーが響き渡ります。




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周りのビルとのコラボもいいですね。

ビルも良い「脇役」しています。




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正面玄関入り口です。




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「ステエーションホテル」です。

このホテルの”ロイヤルスイート”は一泊いくらすると思いますか。




なんと《80万円》するそうです。  吃驚(びっくり)!!!!




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『東京駅』は1914年”辰野金吾”によって造られました。

”辰野金吾”は佐賀県唐津の出身で現東京大学工学部建築科の一期生で

日本の煉瓦造り建築の祖と言われている。




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「日本銀行本店」を筆頭に現存する有名な煉瓦造りの建物はほとんど彼の設計です。

後年は「東京大学の学長」も勤め、「工手学校(現工学院大学)」の設立者でもあります。















『東京駅』には「八角形のドーム」があります。

その八角形のアーチの最上部に最後に嵌め込んで、構造的に強度を持たせるための

「キーストーン」と言う石がありますが、その「キーストーン」に

”辰野金吾”は豊臣秀吉の兜「馬籣後立兜(ばりんうしろだてかぶと)」をモチーフしたものを使っている。

なぜ秀吉なのかと言うと”辰野金吾”は、唐津の「足軽」より身分の低い「下級武士」の出身で

秀吉にあこがれていたからとされている。



又その八角形に「干支」がモチーフされている。

ただし、八角形なので「十二支」は入らない。八枚だけである。

「十二支」は、元々それぞれ方角を示すものでもありますが、

真東、真南、真西、真北を示す「卯(う)」「午(うま)」「酉(とり)」「子(ね)」がない。

後年『東京駅』のどこかにあるだろうと、さんざん色々な学者さん達が探したが見つからなかった。




ところが、近年それが見つかった。

2012年、同じく”辰野金吾”が1914年に造った、佐賀県の「武雄温泉新館楼門」の

改修工事の際天井裏から出てきた。東西南北に埋め込まれていたのです。

『東京駅』に使うために造られた「干支のモチーフ」が密に遠く離れた武雄温泉の楼門に埋め込まれていた。

しかも、人目を避けるように。 しかも温泉場かよ1



そしてそれが約100年の時を経て明らかになる

"ミステリー"を通り越して"ファンタジー"ですよネ。



”辰野金吾”が100年後の人達に送った"遊びごころのプレゼント"だったのだろうか。

だとしたら、今頃舌を出して九州人らしく"アカチョコべー(あかんべー)」してるかも






            






"竜野金吾"によって作られた『東京駅』が戦争とか震災とかの紆余曲折を経ながら、

いろんな人の力を得て現在に生きている。

もちろん強度を補強されたり、"免震装置"を施されたりしてはいるが、作者の意図を極力尊重されている。

本当に素晴らしい。 日本の大切な宝物です。

さて、200周年目には何が施されるのだろうか、考えるだけでも今から楽しみです。

出来ればぜひ参加したいですネ。








以上『東京駅』100年目の歴史と色のファンタジーでした。

歴史探訪 | 06:17:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
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